どうなるシリーズ

どうなるこの国の障害者福祉

来し方の10年を考える

 

平成27年7月、当法人の第1号施設、堺みなみ(創設当初の堺南通所授産所を平成20年1月1日付改称)は開所後30年の歳月を数えます。昭和60年(1985年)3月に国の法人認可を得、そして7月1日の施設認可、開所へとつながりました。

堺市における民間立(社会福祉法人立)の障害者施設としても第1号で、諸方の注目をよびました。

昭和58年、堺市は当時散在していた無認可障害者作業所の統廃合と、近い将来の政令都市への移行を視野に、市内6区域での知的障害者通所授産施設の設置整備計画をうち出しました。他よりも先駆けて活動していた3ヶ所の無認可障害者作業所(団体―のちに合併して障友会)がいちはやく手をあげ社会福祉法人設立の意向を表明。堺市の承認を得たものの、3作業所団体のいずれもがとにかく貧しくて、施設建設に必要な自己資金にはほど遠い財政状況でした。

ご家族が中心になった必死の資金あつめ活動、ご家族や関係者の大きな経済的支援にもかかわらずなお多額の資金不足。最終的には金融機関からの高利の借り入れによって何とか実現にこぎつけたものでした(返済のため「堺みなみ」開所後も厳しい資金あつめ活動は続いた)。

7月1日、雨天、ぬかるみの中で開所式となりました。しかし、悲願達成のその日は風景の何もかもがまばゆく輝いており、頬を壁にすり寄せて新しい建物の感触を確かめてみるなど、本当に忘れられない1日となりました。障友会の原風景ともいうべき開所日の色彩は今日もなおあせることがありません。

以来30年。数えきれないほどのいろいろなことが出来し、そしてのりこえてきました。5年、10年、20年と着実に「障友会史」を刻んで今日に至りました。不断に、そして筆舌を尽くしがたいほどのご尽力をいただいたご家族のみなさまには言葉もありません。心からの感謝とお礼を申し述べるものです。

 

ところで、今、当法人では創立30周年を記念する各種の事業を実施すべく、今夏にむけて余念なく準備を進めています。「30周年記念誌」の作成もそのひとつです。これまでの「記念誌」に倣い、法人としての歩み(年度毎の概要年表)を私が担当し編むことになりました。20周年(平成16年度)以降の、平成17年度から26年度までの10年間についてです。

 

あらためてこの10年間の「障友会小史」をかえりみる機会になりました。作業を通じて、この10年間がいかに激動の時代であったかがわかります。そしてこの激動性は、おそらくは戦後70年のわが国の社会福祉史上類をみないほどのもので、特筆すべき期間であったといえます。とりわけ障害者福祉分野においては著しく、次世代に語り継ぐべき示唆に富んだ10年であったともいえます。

10年の最終年(障友会の基準で)である今日、「このように至った」わが国の障害者福祉の現状をどのように評価するべきか。何らかの統括も必要ではないか、とは考えられますが、ともあれ、私たちは10年間の様々な出来事を通じて大変貴重な「教訓」を得ることができたように思います。

それは、社会福祉という公的施策の、本質に根ざす限界性のあらためての確認でした。そして、それをくいとめるためには何が必要であるのか、ということについてでした。つまり、性向として必ず低きにむかおうとする社会福祉施策の流れをせきとめ、むしろ反転、押し戻すためには何よりも社会福祉の対象者―当事者自らが発言し行動しなければならない、という、実に当りまえなことではありました。この10年間の現実は如実にそのことを物語っています。

 

平成12年度、高齢者福祉から始まったわが国の「社会福祉基礎構造改革の具体化―政策、制度の大転換」は、ほどなく障害者福祉分野にも及びました。当法人にとっての過去10年間の初年度(平成17年度)は、本格的な制度改変が実施される前年度に当ります。

以後、私の「忘備ノート」には「障害者自立支援法」に反対し、抜本的な制度見直しを求める様々なとりくみ―運動(障害当事者、団体、家族、事業者組織などがとりくむ)が記され、それらに関する記載であふれるほどになります。又、法人や施設をあげての行動を示す記録も満載でした。

その一方で、くしくも同時期に動き出した国際的なとりくみ―「国連・障害者の権利条約の策定と条約化」や、日本政府に条約の早期批准を促すための活発な行動予定も随所に並記されていました。

わが国の障害者福祉のあり方を、いわば障害者の尊厳を軽視冒涜し(平成22年1月、当時の民主党政権が「障害者自立支援法」は違憲、として裁判に訴えた障害者訴訟団に対して示した反省の弁)、公的責任性を後退させようとした国の策動。対して、その対極の動向―障害者の人権や尊厳を擁護し、差別のない社会づくりをめざす国際的な潮流―障害者権利条約の策定。さらには障害とは何か、という「定義」の改訂(世界保健機関、2001年。医学モデルから社会モデルへの転換)。それら国内外の大きな動きが時期として見事に重なりあいました。

はたして、たまたまの偶然であったのか、それとも何らかの歴史的、経過的必然性があったのか。今、私にはわかりかねます。

しかしながら、この結果としての重なりは、わが国の障害者福祉にとっては大きな意味をもち、大変幸運であったと言わねばなりません。

障害者権利条約の策定過程を通じてわが国の各障害者団体、組織の結束が進みました。あとに展開される大運動の基盤ができたのです。その上で、権利条約の理念や改訂された「障害の定義」などを障害者自立支援法反対運動の強力な武器にすることができたからです。

日本政府はこれら国際的な動向についてはこれを認めざるをえず、国の度重なる法制度の改善補正や見直し、さらには数々の新しい法制度の創設、成立に注力をせざるをえなくなったのです。

 

障害当事者たちの大運動は、かつて例をみないほどの結束力により、しかも日常的に展開され続けました。わが国社会を広範に巻き込み、多くの国民の支持と共感をよびました。

権利条約にうたわれた数々の「輝く言葉」、深重な文言や表現を用い、又、あらためられた「障害定義」を駆使して日本政府に対峙し続けたのです。

「障害者自立支援法」と「権利条約」との激しい「せめぎあい」、「つなの引きあい」という表現がこの10年間の出来事を端的にあらわしているといえるのかもしれません。

かりに、先の国際的な流れがなかったなら、あるいはわが国の動向とはタイミングがずれていたならば、はたして「障害者自立支援法」の行方はどのようであったのでしょうか。

 

すでに権利条約の批准も実現しました(昨年1月)。「時代」が産んだ主な新法、改正制度としては平成28年度からの「障害者差別解消法」と「改正障害者雇用促進法」の施行を残すだけになりました。いよいよ激動の10年も最終局面をむかえるのでしょうか。

後年、この10年はわが国の障害者福祉にとってどんな時代であったとみなされるのでしょうか。社会福祉を担う次の世代の人たちにはどう評価されるのでしょうか。

ともあれ、障害者福祉の前進には、少なくとも後退させないためには、まずは「当事者たち」の力強い、しかも一致団結した不断の訴えが欠かせません。私たちはこの激動の時代状況に、「社会福祉の原理・原則」ともいうべき貴重な「教訓」をあらためて学ぶことになりました。しっかりと肝に銘じ、又、次世代にも伝承しつつ「ゆく末」にむかってゆきたいと思います。

 

10年の激動は当法人の事業にも大きな影響がありました。私の「忘備ノート」には前述の「運動」や「権利条約」の記述とともに、当法人がとりくんだ様々な事柄についてもたくさん綴られています。それだけ多忙な10年であったともいえるかもしれません。

とはいえ、この多忙さの中身はそれが余儀なくされたものであったと同時に、当法人事業の一層の前進のためのものでもありました。

平成27年から始まる当法人にとっての「次の10年」。できれば後者による多忙さで私の「忘備ノート」がうめつくされるように、と願わずにはいられません。

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